広島県の世羅高校の石川校長は私の担任だった


君が代、日の丸問題で自殺した石川先生の思い出

 今年、日の丸・君が代問題で自殺した世羅高校の石川校長は私のクラスの担任だった。石川先生は広島大学を卒業して、世羅高校に新任教師として赴任してきた。そして1年C組に入学したのが私たちで石川先生はクラスの担任になった。我々は若い石川先生を、石川さん、石川さんと呼んでいた。
 入学して間もなく、授業中に廊下を勝手に歩き回る私、そこに石川先生が他の先生の通報を受けて飛んできた。「神浦君、なぜ授業に出ないのですか」。「高校は義務教育ではありません。単位はキチンと取りますから、学校の生活は私の自由にさせてください」そんな会話をした思い出がある。

 石川先生は数学の担当だった。私は自慢するわけではないが数学が得意で、将来は数学者になりたいと思っていた事もある。しかし1年の1学期の試験で、石川先生の数学のテストで零点を取った。もう勉強をするのが馬鹿馬鹿しいと思い、数学のテストに名前だけ書いて提出し、勝手に教室を出ていってしまったのだ。当然ながら点数はゼロ。石川先生はあせってしまったに違いない。石川先生に呼ばれて、なにを話したか忘れてしまったが、長い時間石川先生と話し合った記憶だけがある。私はその次の数学の試験で百点を取った。あの時に石川先生と、何を話したか忘れてしまったことが残念でしかたない。

 世羅高校1年生の晩秋、私は自分の親や石川先生に内緒で、自衛隊少年工科学校の入学試験を受けた。1次試験に合格、2次試験にも合格し、面接や身体検査の3次試験の時に、とうとう親や石川先生にばれてしまった。合格通知を広島地連(募集担当)の隊員が田舎の自宅に直接届けたからだ。
 私の親との間で、いろいろな話し合いがあった。「世羅高校を辞めないで、高校だけは卒業だけはしてくれ。それから防大にいってもいいし、大学から自衛隊に入ってもいいじゃないか」。そんなことを言われて、少年工科学校に行かないように説得された。しかし私の気持ちは変わらない。その頃に、石川先生と話し合ったことも鮮明に覚えている。

 「どうして君は学校を辞めて自衛隊に行くのだ」「家が貧しくて、このまま私が高校に通えば、弟は経済的な理由で高校に行けません。私が自衛隊に入って、仕送りをして弟を高校に行かせます。少年工科学校に行けば、給料がもらえるし、高校の卒業資格ももらえます」。石川先生は、しばらく黙って考えていたが、「わかった。それなら私は何も言わない」、その時の石川先生の寂しそうな顔をはっきりと覚えている。

 あとで聞いた話だが、私が中退して、自衛隊の少年工科学校に行ったものだから、石川先生は同僚の先生から「なぜ自衛隊に行かせた」と、吊るし上げを食ったという。教え子を再び戦場に送るなというのが、広島県日教組の重要な活動方針だったからだ。しかし石川先生は同僚の吊るし上げに我慢をして、私の立場を説明し擁護してくれたという。私は少年工科学校時代に石川先生と交わした手紙(要旨)を、自衛隊を辞めて数年後の、二十数年前の「軍事民論(当時の社会党系軍事専門誌)」に頼まれて掲載している。

 石川先生は私にとって最高の教育者であった。世羅高校を中退し、少年工科学校に入学してから、私は一度も石川先生と会ったことはない。しかし世羅高校の同級生を通じて、石川先生の消息は詳しく聞いていた。石川先生も私のことをいつまでも気にしていたという。
 石川先生が君が代・国旗問題で自殺したとテレビニュースで見たとき、すでに34年の昔になってしまった過去が、鮮明に思い出されてきた。その時に考えたのは、私の人生はこれで良かったのだろうか。石川先生に私の人生をどう説明をすればいいのだろうかということだった。      
 その後、国会で国歌と国旗の法案が成立した。だが、その法案は石川先生の意志とはまったく別のものであるような気がしてならない。私は日の丸が掲揚されたり、後納される時は、直立不動の姿勢で日の丸に正対する。しかしはためく「日の丸」の向うに、今は亡き石川先生の真面目な顔が浮かぶことも事実である。合掌。