萩崎海自3佐、スパイ事件を分析

警察、検察はこの事件を立件できるか



不起訴が常識という法的根拠

 今月の9月8日、警視庁公安部に海上自衛隊の萩崎繁博3佐(38)が逮捕(自衛隊法違反・機密漏洩)された。ロシア大使館の駐在武官ビクトル・ボガテンコ大佐(44)に、機密文書を手渡したという容疑だった。しかし翌日、ボガデンコ大佐は警察の出頭要請を無視しロシアに帰国してしまった。その後の警察の取り調べでは、萩崎3佐からボガデンコ大佐に渡った資料は、せいぜい「取り扱い注意」程度のもので、防衛庁が「秘密保全に関する訓令」で定めている秘密文書にはあたらぬものであったことが判明した。(AERA 9月25日号 「ロシア武官が論文指南」 田岡俊次編集委員の記事を参照)

 さてこの場合、警察や検察はこのスパイ事件を立件できるのだろうか。最初に答えを言えば「起訴は極めて難しい」ということになる。というのは
スパイ事件の裁判では、渡した資料の内容も重要だが、その資料を受け取った相手も立証しなければならない。ボガデンコ大佐がロシアに帰国してしまったので、そのことを裁判で立証することは事実上無理になった。(最初から立証しようとすることがまず無理である)。同じ様なスパイ事件に「宮永事件」があった。あの時の場合も、ソ連大使館のコズロフ大佐は事件が発覚するとさっさと帰国してしまった。だから宮永氏とコズロフ大佐の関連では、ロシア大使館武官がらみで宮永氏は起訴をされなかったと記憶している。もしAがBに資料を渡したという犯罪行為を証明するなら、その資料を受け取ったBという側の証明も必要になるからだ。それが証明できないので、宮永スパイ事件はあくまで宮永元陸将補というOBが、現職の自衛隊情報幹部2名から、「秘」指定の情報を入手した事件となったのである。このあたりの事実関係を正確に理解しておく必要がある。

 今回の事件で萩崎3佐が渡した資料では、前述のように逮捕理由の「自衛隊法違反・機密漏洩」で起訴することは難しくなった。そこで
萩崎3佐に潜水艦部隊の幕僚経験があるので、「米軍関連の秘密情報をロシア武官に漏らした」という、日米地位協定違反で立件しょうとしたようだが、裁判になればその資料を提示しなければならない。はっきりいって防衛当局にとって、これは天井に唾を吐くようなものである。そのような場合は米軍側も防衛庁も、たとえ萩崎3佐が渡したという事実があっても、裁判所に秘密性の高い軍事情報を提出するのは嫌がり、事件としては起訴されないはずである。となれば警察はこのままでは、萩崎3佐がロシア武官に秘密資料を渡した違法性を、法的には立証できないことになる。また情報を渡したロシア武官との関係も証明できないとなれば、この事件での起訴は極めて難しい。もし萩崎3佐が法廷で起訴事実を争う方針をとれば、原告側(検事)がこの裁判に勝つことは難しい。だから警察にとって最悪な場合には、このスパイ事件を起訴できないこともありえるのだ。まさに警察公安部の悪夢である。

 このあたりの法律解釈を知った上で、萩崎3佐スパイ事件で今後の展開を注視することが重要である。
この事件が発覚すると、最初は渡した資料の重要性が最大の焦点になった。しかし今は、この事件の責任をだれが取るかに焦点が移ってきた。冷戦終結後の新たな時代変化に、警察も防衛庁も対応できていないという理由からだ。しかし防衛庁(自衛隊)の方では、この事件に関しては意外にも楽観視しているようである。彼らの関心は警察の次の出方に注目している。

 それでも萩崎3佐が起訴をされたら、久しぶりに東京地裁を訪れ、この裁判の初公判を傍聴したいと思っている。検察官が読み上げる起訴状をじっくりと聞いてみたい。

 (追伸) 先日、このホームページを読んだ京都の高校1年生の人から、軍事ジャーナリストになるためにはどうしたらよいかという質問(メール)を受けた。その返事の中で、私は語学や歴史の勉強以外にも、法律の勉強をしておくことを勧めた。今回のスパイ事件でも登場したが、「実はとんでもない秘密情報がロシアに流されていた」というような、デタラメの記事を書く軍事ジャーナリストがいる。そんな記事のほうが、雑誌の売れ行きがよくなるからだ。面白くない真実より、面白いウソで記事をつくる人がいる。そんな質の悪い軍事ジャーナリストにならないために、国際法・国内法に関係なく、正確な法律知識は絶対に必要である。その最適な実例を、この軍事知のABCで伝えたい。「軍事ジャーナリストには質の高い人間性も必要だ。貧すれば鈍するの精神の人では困る」。
                                         (2000年9月19日)